眼前は崖だった。
 切り立った荒い岩肌が、遥か下まで霞むほど伸びている。

「どういったことか」

 わたしはただ、その光景にそれしか小さく零すことしか出来なかった。

 何のことはない、わたしはしがないサラリーであった。
 愛しい妻と愛しい息子に愛しい娘、余るほどの裕福さはなかったが、底をつくほどの生活でもなかった。
 そこそこに幸福でそこそこに恵まれた、 今の時代で言うなら、逆に手にすることが難しいかもしれないそこそこの生活。
 そう、わたしの全ては緩く緩く、緩慢に過ぎゆくものであった。
 それは人生の終幕においてもそうであり、わたしのそれは緩く緩く、緩慢に訪れたものだった。

「死んだということは理解出来るのだが……」

 そこそこに幸福であった。
 だからこそ、終幕を実感した瞬間でさえも、そこそこに満足していた。
 全ての愛しい者に見送られ、安らかに逝けたことは幸福に違いない。
 だが、これは本当にどういったことだろうか。
 そうして思考は一巡し、全ては冒頭へと戻る。

 どうやら見受けるに、死後の世界には唐突なことが多く起こるらしい。

「あっ、いたいたー!もーちょー遅いんですけどー!」

 突然に彼女は現れた。
 出現方法云々より、その突飛な言動と出で立ちに、わたしは多少なりとも慄いてしまった。
 今どきな喋り方と大袈裟なリアクションをする彼女は何故か、サバイバルスタイルをしていた。

「あ、ええと……待たせてしまったのでしょうか?」
「ちょー待ったしー。オジサン、マジおっそーい!」
「はあ、申し訳ない」

 実はずっとここにいたのだが、わたしの思う“ずっと”という感覚がここの“ずっと”とはズレがあるのかもしれない。
 わたしが知らないだけで、彼女は待っていたのだ。
 何が何だかを理解及ばないので、そうなのだろうと、何となく納得した。

「じゃ、早速だけど。これ持って、これ着てね!」
「これは……」

 サバイバルナイフに軍手、命綱にアーミーブーツ、ゴーグル、防弾ジャケット、ホルスターにリボルバーにショットガンに手榴弾に……ホルスターにリボルバーにショットガンに手榴弾?

「リボルバーはあたしの分しかないけどー。まあ、何とかなるなる!あ、ショットガン使ったことある?馴れてないと難しいかなー交換する?」
「え、あれ?いや、あの」
「ショットガンってさ、照準絞るのムズいってーか、最初は扱いにくいってねー。わかるわかる!やっぱりリボルバーにしとく?若葉マークっぽいもんね!あ、大丈夫!衝撃で骨折れたりとか、そういう心配はここじゃないからー!」
「はあ、そういうものですか……」

 勢いに気圧され、そうとしか言えなかった。

「オートマチックがあればよかったんだけどねー。ま、楽しちゃ意味ないし、面倒なのも一つの贖罪しょくざいなわけで」
「贖罪……」

 どういう意味だろうかと首を捻る。

「何、思ってたのと違うって?」

 装備の着装を手伝ってくれながら、彼女はけらけらと笑いながら言う。
 言っていいものかわからなかったが、素直にそうだと返した。

「皆最初はそう言うよー。オジサン、悪いことなんてしてないはずなのに、何でこんなことになってんだって思ってんでしょ」
「まあ……不思議には思っています。ここは天国ではないのでしょうか」

 それなりに幸せで緩やかだったわたしの人生において“悪いこと”というのはほど遠いものだったように思う。
 特に悪事を働いたことはなく、また、悪事に巻き込まれたこともない。
 ようやく、一応言われるがまま装着したサバイバルスタイル一式はあまりに過去の自分とは違っていて、不恰好さに笑ってしまった。

「天国ってのはねー」

 唐突に彼女が口を開く。
 が、せっせと手を動かしながら背負ったそれは、どう見てもパラシュートだった。
 パラシュート?
 ……いつ、何に使うのか、現状からは容易く予想出来てしまって、笑ったはずの口元が少しだけ引き攣る。
 お構いなしに続ける彼女は、にかっと、場違いなほど底抜けに明るく笑った。

「あるにはあるけど、ここ最近は入国審査が厳しくってー。何でだと思う?世の中には悪人が溢れてて、善人の方が少ないのにだよー?」
「……さあ、何故でしょうか」

 すでに予想の範疇を超えた出来事が多過ぎて、わたしにはわからなかった。

「んー、わかんないかー。あのね、天国ってのは“完全なる善きもの”のための場所で、まあ、なかなかそんな人っていないんだけど、死んでから償った人達は、結局そこに逝けるわけー」
「はあ、なるほど」
「でもねー、死ぬのって人だけじゃないじゃん?」
「そうですね」
「そー。万物全て、命あるものはいつか死ぬでしょ。動物も、植物も」
「そうですね……確かに」
「そ。天国も地獄も、人だけのものじゃないの。今天国は人以外で満員御礼なわけ!だから、ちょっとやそっとじゃ人は審査に通れないっつーこと!ボランティア活動とか積極的にやってたら別なんだけど。あ、地獄は別ね。あそこはちょー広いからー。でも不思議なことに、地獄に堕ちるのは大抵が人なんだよねー!マジ不思議ーでも納得ー」
「それは……」

 人には──少なくとも、地球上に存在する生物において、人ほどに複雑な思考回路を持つものがいないからではなかろうか。
 これが傲慢であると言えばそれまでだが、人ほどにそうである生物を少なくともわたしは知らない。

「オジサン、あったまいーい」

彼女はまたからからと笑う。

「だいたい合ってるかな。その考え方こそが人が人たる所以であってねー」
「はあ」
「つまり、」

 ひたり、と目が合う。
 弧を描く目元は笑っているはずなのに、責められているような気持ちになる。
 よくよく考えたならこの時点でわたしの思考は読まれていたのだろうが、自然に会話が成り立っていたので、全く気づくことはなかった。

「その傲慢が、人以外のもので天国を満員御礼にさせてるってこと」
「……なるほど……」

 そうか、だから“贖罪”。
 他人事のように思っていたが、それこそが傲慢であったのか。

「さ、行くよー。ラスボスを倒し、世界を救うんだ!」
「しかし……人を傲慢と言う割りに、使用武器がえげつないのでは……」
「中身は天国仕様だから大丈夫!」

 撃たれたなら“善きもの”になるとか、そういったことだろうか。

「あー、そーそー!オジサンやっぱあったまいーい!」

 そうらしい。
 そこまでは理解出来たものの、結局具体的なラスボスとやらが何なのかわからないまま、彼女はわたしに突進するが如く抱きつき──

「せいや──っ」
「ぎ、ゃあああああ────……」

 ──未だかつて上げたことのない悲鳴と共に、遥か下まで霞むほど伸びている切り立った荒い岩肌の崖から、大ジャンプを強要されたのであった。




 さて、ラスボス含めそこに辿り着くまでの諸々の“何か”にリボルバーやショットガン、手榴弾が有効であるのかはわからない。
 しかし、天国に着いたあかつきには、わたしはきっと、次の再生のときにもっと“世界”について考え行動することが出来るだろう。
 これはそのための、

贖罪大冒険




writing by, Makoto Suzuki

_20120605

- mono space -